127年前の1889年(明治22年)7月28日深夜、熊本市を震央(地図)とする「熊本地震」(M6.3)が発生しています。『理科年表』(国立天文台編纂、丸善株式会社)には次のように記載されています:
熊本県西部: 熊本市を中心に半径約20kmの範囲に被害があり、県全体で全潰239、死20。橋の落下や破損が多かった。
今回の地震と同様に熊本城の石垣が崩れたようで、当時の庶民の日記には次のように書かれています(五野保萬の日記より、現代語に直してみました。原文はWikipedia所載):
熊本城の百閒石垣は、昔から大変なことが起きても少しも動くことがなかったと言われていたが、今回の地震によって長さ5間余りにわたって崩落した。また、城内の(他の)大きな石垣も所々で崩れたので、城内に駐屯していた鎮台の兵士も城から出て、山崎練兵場や川尻の辺りに移動した。城内には見張りの兵士だけが残った。28日の地震では鎮台の兵士に多くの死人や負傷者が出た。大いにあわてふためいて (中略) また合戦が始まったと誤解して驚き、(混乱した中で)死んだり負傷したりしたそうだ。
(注: 西南戦争で西郷隆盛を盟主とする薩摩軍が官軍の籠もる熊本城を包囲したのは1877年。)
この「熊本地震」の後、火山噴火や地震活動はどのように推移したでしょうか。
別府-島原地溝帯内部や縁辺部の火山(阿蘇山、雲仙岳、九重山、鶴見岳、伽藍山)に噴火の記録はありません。地震後にいちばん早く噴火したのは阿蘇山で、地震から5年後の1894年のことです。
地震はというと、「熊本地震」の翌年(1890年)、長野県北部でM6.2の被害地震が発生。さらに次の年(1891年)、日本の内陸地震としては最大といわれる「濃尾地震」(M8.0)が起きています。愛知県北部から岐阜県西部を貫いて福井県に至る長大な断層帯が左横ずれを起こしたもので、長さ約80kmにわたる大断層が地表に出現しました。断層のずれは水平方向に最大8m、上下方向が最大6m(断層の西側が隆起)。『理科年表』によると建物全壊14万余、半潰8万余、死7273、山崩れ1万余。
この「濃尾地震」の後、1892年に能登半島西岸(M6.4)、1893年に鹿児島県南部(M5.3)と被害地震が続き、1894年(明治27年)6月20日、東京都東部を震源とする「東京地震」(M7.0)が発生します。『理科年表』によると、青森から中国・四国まで揺れを感じたとのことで、東京、川崎、横浜、鎌倉、浦和方面などに被害がありました。