2009年12月2日水曜日

静岡地震被害見学記

今年 8月 11日(火)早朝に発生した駿河湾の地震を記憶しておられると思います。気象庁の発表では Mj6.5、米国地質調査所 USGS の資料では M6.4 でした。

この地震以前にも、ほぼ同じ場所を震源とする被害地震が何度も発生しています。直近では、「静岡地震」(M6.4、1935年 7月 11日)と「1965年静岡地震」(M6.1、1965年 4月 20日)があります(詳細は、このブログの過去の記事「駿河湾の地震についてあれこれ (その 6)」の「過去の被害地震」という節を参照してください)。

前者の「静岡地震」について、実地に見聞した寺田寅彦(てらだとらひこ)博士が書き留めた『静岡地震被害見学記』を、インターネットの電子図書館・『青空文庫』で読むことができます。博士は、これを「静岡大震災見学の非科学的随筆記録」と称しています:
当時の地名が今も残っているのではないでしょうか。だとすると、地元にお住まいの方たちの中には、この『見学記』の記述で、「あぁ、あそこが…」と思い当たることがあるかも知れません。

それほど長い文章ではありません。時間のある方は是非お読みください。全文を読む時間のない方向けというわけではありませんが、以下は、私なりにポイントを抜粋したものです:

▼この静岡地震では、兵庫県南部地震(阪神大震災)と同じように、被害が狭い帯状の地域に集中する現象があったようです:
山裾の小川に沿った村落の狭い帯状の地帯だけがひどく損害を受けているのは、特別な地形地質のために生じた地震波の干渉にでもよるのか、ともかくも何か物理的にはっきりした意味のある現象であろうと思われたが、それは別問題として、丁度正にそういう処に村落と街道が出来ていたという事にも何か人間対自然の関係を支配する未知の方則に支配された必然な理由があるであろうと思われた。故日下部(くさかべ)博士が昔ある学会で文明と地震との関係を論じたあの奇抜な所説を想い出させられた。
▼昭和 10年(1935年)当時のマスコミも、今と大して変わらなかったようです:
新聞では例によって話が大きく伝えられたようである。新聞編輯者は事実の客観的真相を忠実に伝えるというよりも読者のために「感じを出す」ことの方により多く熱心である。それで自然損害の一番ひどい局部だけを捜し歩いて、その写真を大きく紙面一杯に並べ立てるから、読者の受ける印象ではあたかも静岡全市並びに附近一帯が全部丸潰れになったような風に漠然と感ぜられるのである。このように、読者を欺すという悪意は少しもなくて、しかも結果において読者を欺すのが新聞のテクニックなのである。
現在の TV 報道でも、大きく破壊された建物の映像ばかりを繰り返し放映するので、視聴者の中には被災地全体がそのようなひどい状況だという実態とかけ離れたイメージが形成されがちです。

▼自分や同僚科学者への戒めもあります:
高松という処の村はずれにある或る神社で、社前の鳥居の一本の石柱は他所(よそ)のと同じく東の方へ倒れているのに他の一本は全く別の向きに倒れているので、どうも可笑(おか)しいと思って話し合っていると、居合わせた小学生が、それもやはり東に倒れていたのを、通行の邪魔になるから取片付けたのだと云って教えてくれた。

関東地震のあとで鎌倉の被害を見て歩いたとき、光明寺の境内にある或る碑石が後向きに立っているのを変だと思って故田丸先生と「研究」していたら、居合わせた土地の老人が、それは一度倒れたのを人夫が引起して樹(た)てるとき間違えて後向きにたてたのだと教えてくれた。うっかり「地震による碑石の廻転について」といったような論文の材料にでもして故事付(こじつ)けの数式をこね廻しでもすると、あとでとんだ恥をかくところであった。実験室ばかりで仕事をしている学者達はめったに引っかかる危険のないようなこうした種類の係蹄(わな)が時々「天然」の研究者の行手に待伏せしているのである。
「天災は忘れた頃にやってくる」は博士の言葉といわれていますが、この『見学記』の中にも以下のような文を見ることができます:
こうした非常時の用心を何事もない平時にしておくのは一体利口か馬鹿か、それはどうとも云わば云われるであろうが、用心しておけばその効果の現われる日がいつかは来るという事実だけは間違いないようである。
▼随筆家としても高名な博士の感性や視点で、私が共感したものを 2つ:
茶畑というものも独特な「感覚」のあるものである。あの蒲鉾(かまぼこ)なりに並んだ茶の樹の丸く膨らんだ頭を手で撫(な)でて通りたいような誘惑を感じる。

この幼い子供達のうちには我家が潰れ、また焼かれ、親兄弟に死傷のあったようなのも居るであろうが、そういう子等がずっと大きくなって後に当時を想い出すとき、この閑寂で清涼な神社の境内のテントの下で蓄音機の童謡に聴惚(ききほ)れたあの若干時間の印象が相当鮮明に記憶に浮上がってくる事であろうと思われた。
なお、寺田寅彦博士は、この地震があった年の大晦日に亡くなっています。


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