2009年12月5日土曜日

孕(はらみ)のジャン

寺田寅彦博士の『怪異考』をインターネットの電子図書館『青空文庫』で読むことができます:
『怪異考』で最初に取り上げられている怪異は、博士の出身地・高知で言い伝えられている「孕(はらみ)のジャン」という現象です。「孕」は地名で、「ジャン」は擬音語です。

どんな現象かというと:
孕の海にジャンと唱うる稀有のものありけり、たれしの人もいまだその形を見たるものなく、その物は夜半にジャーンと鳴り響きて海上を過ぎ行くなりけり
と言い伝えられているものです。

孕という地名について博士は、「高知の海岸に並行する山脈が浦戸湾(うらどわん)に中断されたその両側の突端の地とその海峡とを込めた名前である」 と書いています。以下のグーグル・マップで確認できます。土佐湾から高知市に向かって入り込む小さな湾(=浦戸湾)が、東西に延びる小山脈を断ち切っています。この部分の海と両岸を孕と呼ぶようです:
博士の生きた時代には、すでにこの現象は起こらなくなっていました。幼少時代の博士に「孕のジャン」の話を語って聞かせた老人たちも、実際にこの現象を体験したわけではなく、さらに前の世代の人から伝え聞いたということのようです。博士は、この現象を「水面にさざ波が立つ」、「魚が釣れなくなる」という言い伝えや、自分の地震体験から、地鳴りであるとの仮説を提示しています:
今問題の孕(はらみ)の地形を見ると、この海峡は、五万分の一の地形図を見れば、何人も疑う余地のないほど明瞭な地殻の割れ目である。すなわち東西に走る連山が南北に走る断層線で中断されたものである。 (中略) もっともこの断層の生成、これに伴なう沈下や滑動の起こった時代は、おそらく非常に古い地質時代に属するもので、その時の歪が現在まで残っていようとは信ぜられない。しかしそのような著しい地殻の古きずが現在の歪に対して時々過敏になりうるであろうと想像するのは単に無稽な空想とは言われないであろう。

それで問題の怪異の一つの可能な説明としては、これは、ある時代、おそらくは宝永地震後、安政地震のころへかけて、この地方の地殻に特殊な歪を生じたために、表層岩石の内部に小規模の地すべりを起こし、従って地鳴りの現象を生じていたのが、近年に至ってその歪が調整されてもはや変動を起こさなくなったのではないかという事である。
高知市を含む四国の南岸は、将来おきるであろう南海トラフ沿いの巨大地震・南海地震で大きな損害を被ることが懸念されています。博士は、この「孕のジャン」という現象が、今後おこるであろう巨大地震の前に復活する可能性を示唆しています:
この作業仮説の正否を吟味しうるためには、われわれは後日を待つほかはない。もし他日この同じ地方に再び頻繁に地鳴りを生ずるような事が起これば、その時にはじめてこの想像が確かめられる事になる。しかしそれまでにどれほどの歳月がたつであろうかという事については全く見当がつかない。ただ漠然と、上記三つの大地震の年代差から考えて、今後数十年ないし百年の間に起こりはしないかと考えられる強震が実際起こるとすれば、その前後に何事かありはしないかという暗示を次の代の人々に残すだけの事である。
博士が、「土佐における大地変」 あるいは上の引用文で 「上記三つの大地震」 としてあげている 3つの大地震について、『理科年表』(丸善株式会社)から抜粋します:
▼684年(天武天皇 7年) M≅8¼
土佐その他南海・東海・西海地方: 山崩れ、河湧き、家屋社寺の倒潰、人畜の死傷多く、津波来襲して土佐の船多数沈没。土佐で田苑 50 余万頃(約 12km²)沈下して海となった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。

▼1605年(慶長 9年) M7.9 + M7.9
東海・南海・西海諸道: 『慶長地震』: (略) 土佐甲ノ浦で死 350余、崎浜で死 50余、室戸岬付近で死 400余など、ほぼ同時に二つの地震が起こったとする考えと、東海沖の一つの地震とする考えがある。 [『怪異考』原文では「慶長九年(一六〇四)」となっています。慶長 9年は西暦 1604年とほとんど一致しますが、この地震が発生した慶長 9年 12月 16日は、西暦ではすでに 1605年になっていたということのようです。]

▼1707年(宝永 4年) M8.6
五畿・七道: 『宝永地震』: わが国最大級の地震の一つ。 (略) 津波の被害は土佐が最大。室戸・串本・御前崎で 1~2m 隆起し、高知市の東部の地約 20km² が最大 2m 沈下した。遠州灘および紀伊半島沖で二つの巨大地震が同時に起こったとも考えられる。
博士は、最後に 「この『怪異考』は機会があらば、あとを続けたいという希望をもっている。昭和二年十月四日」 と書いています。しかし残念なことに、この 「孕のジャン」 と 「『頽馬(たいば)』『提馬風(たいばふう)』また濃尾(のうび)地方で『ギバ』と称するもの」 という 2つの現象について書いたきり、後続が執筆されることはなかったようです。


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