1970年から1973年にかけて、カリフォルニア州サンタクルーズ市(地図)とその周辺では、3つの大量殺人事件が相次いで発生していました。そのうちの1つは、人を殺せば地震の発生を防ぐことができるという犯人の特異な妄想が際立っていました:
以下は上記記事の主要部分をテキトー訳したものです:
サンフランシスコ市の住民は、かつて同市が大地震によって壊滅的被害を被ったことを知っているし、同じようなことが今後ふたたび起こりうることも承知している。しかし、いつ次の大地震〝Big One〟が起きるのかは謎のままである。
1972年の終わりごろ、ルーベン・グリーンスパン(当時67歳)は、アリゾナ砂漠にあった昔の予言者のような彼の隠棲場所から出てきて、「サンフランシスコは1973年1月4日午前9時にサンアンドレアス断層沿いで発生する大地震によって崩壊する」と予言した。グリーンスパンはグリニッチビレッジ出身の数学者で、1930年代以降、地震を予知することに何回か成功したという実績を持っていた。その予知方法は、月、太陽、星の地球に対する相対的な位置と潮汐のデータを照らし合わせるというものであった。
カリフォルニア大学バークレー校地震観測所の所長、ブルース・A・ボールトはグリーンスパンの予言を「たわごと」と呼び、サンフランシスコ・クロニクル紙のコラムニスト、ハーブ・カーンはこの不吉な予言者を、ざらにいる「ペテン師、いかさま師、嘘つき」の一人と非難した。カーンはサンフランシスコ市民が同市のことをフリスコと呼ぶのを止めさせることには成功したが、1972年が終わりに近づくにつれて市民がパニックに陥るのを止めることはできなかった。(大手保険会社の)ステート・ファームは地震保険の売り上げが増加したと報告し、サンフランシスコ湾岸地域の住民の中には、念のために市外への避難を計画する者もいた。
サンタクルーズ市近くのカリフォルニア州フェルトンに住んでいたハーバート・マリン(当時25歳)は、近づいてくる災害を防ぐ計画を持っていた。その計画の中には多くの人々を殺害することが含まれていた。
マリンは後日、次のように説明している ―― 「世界の歴史が始まって以来、われわれ人類は人を殺すことによって、地殻が激変するような大地震からわれわれの諸大陸を護ってきた」、「言い換えれば、小さな自然災害は大きな自然災害を予防するのだ」。
1972年10月13日、サンタクルーズ山脈中の人里離れた道路で、マリンはローレンス・ホワイト(当時55歳)を野球のバットで撲殺した。その11日後、マリンはヒッチハイキング中だったカブリリョ大学の学生、メアリー・ギルフォイルを自分の車に乗せた。マリンは彼女の胸と背中を刃物で突き刺し、遺体を山の中に遺棄した。数ヶ月後に遺体が発見されたときには腐敗が進んでおり、検死官は殺人か否かを判別できなかった。
1972年11月2日、マリンは、ロスガトス市内の教会の懺悔室から出てきたアンリ・トメイ神父を刺殺した。トメイは第二次世界大戦中、フランス・レジスタンスとともにナチスと戦った経歴の持ち主で、マリンのこれまでの犠牲者よりも手強かった。胸を刺された後も、トメイはナイフを取りあげようとして格闘し、その最中にマリンの耳のあたりを蹴っていた。マリンはナイフを取り戻すと、神父を死ぬまで刺し続けた。トメイが殺害されたのは万聖節(ハロウィーンの翌日)の当日であったため、報道機関は悪魔崇拝のカルト教団の仕業ではないかと憶測した。
マリンが生まれたのは1947年4月18日で、1906年のサンフランシスコ地震から41周年の記念日に当たっていた。アルバート・アインシュタインは1955年のこの日になくなっている。後にマリンは、この日に生まれたことがベトナムで戦死する運命から彼を超自然的に護ったと信じるようになる。マリンの幼少期のしつけは比較的普通のものであったが、高等学校卒業後のあるときから「声」が聞こえるようになったという。20歳代の半ばまでには、「声」は彼に「殺せ」と告げるようになっていた。
最初の殺人を犯す前、マリンはカリフォルニアとハワイの精神病院で入退院を繰り返していた。精神科医は彼を重度の妄想型統合失調症であると診断した。日増しに高まる彼の不穏な行動を無視できなくなった両親は彼を収容してくれる施設を捜したが、当時のドナルド・レーガン州知事の度を超した予算削減指向によってカリフォルニア州の精神医療システムはすでに疲弊しきっていた。マリンは自由に出歩くことができ、投薬治療を受けることもなかった。1972年12月には、まったく何の問題もなく22口径の拳銃を手に入れることさえできた。
大地震が起きると予言されていた1月4日になり、さらにその日が過ぎても、サンフランシスコが崩壊して海に沈むことはなかった。予言をしていたルーベン・グリーンスパンは、自分の計算が間違っていたと語った。マリンは自分の殺人活動が効果を現している(地震を防いでいる)と確信し、殺人を続けた。
1973年1月25日、マリンは5人を殺害した。もっとも若い犠牲者は4歳のデーモン・フランシスだった。マリンは後に、犠牲者たちはテレパシーを通じて殺していいよと彼に告げていた、と主張した。
1973年2月6日、ヘンリー・カウエル・レッドウッズ州立公園内の臨時のキャンプ場で、マリンは偶然出会った若者4人を射殺した。マリンは犠牲者の所持品の中にライフル銃かあるのを見つけ、後に必要になるかも知れないと考えてその銃を自分のステーション・ワゴンに積み込んだ。
1週間後、マリンは両親の家にたくさんの薪を届けることになった。その時、父親の「声」が聞こえた。「薪を届ける前に、私のために誰かを殺してくれないか。」 マリンはその求めに応じて、キャンプ場の犠牲者から奪ったライフル銃で72歳のフレッド・ペレスを射殺した。ペレスを殺害した後、マリンは彼の青色のシボレー・ステーション・ワゴンにもどり、薪を届けるために両親の家に向かって冷静に車をスタートさせた。警察が彼を逮捕したのはその数分後のことだった。
マリンは13人の殺害を自供し、終身刑の判決を受けました。