2016年12月31日土曜日

小藤文次郎と断層地震説


小藤文次郎(ことうぶんじろう)といわれてピンと来る人はそれほど多くないと思いますが、明治時代に地震が断層運動によるものであるとする断層地震説を唱えるなど、日本の地質学や地震学に大きな足跡を残した学者です。以下は『世界大百科事典』(平凡社)からの引用です:
1879年東京大学地質学科の最初の卒業生となる。(中略) ドイツ留学中から、引き続き日本の岩石、とくに変成岩を研究して、西欧に紹介した。また、日本および東亜の地帯構造を論じた。三波川、御荷鉾(みかぶ)など変成岩帯を識別・命名。玄武岩も小藤の訳語。火山と地震についても研究し、地質構造線との関連を説き、1891年の濃尾地震の際に根尾谷断層を報告して断層地震説を例証し、世界の注目を集めた。

Wikipedia の「小藤文次郎」の項には次のような記述があります:
1891年の濃尾地震の際には、発生から約2週間後に現地入りして調査を行い、後にその結果から断層地震説を発表した。調査の際に撮影された根尾谷断層の写真は、1893年に小藤が発表した論文に掲載され、活断層の様子を生々しく記録した写真として世界に広まった。

私たちが教科書などで見かける根尾谷断層写真は小藤氏の論文からとられたものだったのですね。

さまざまな説が淘汰されて小藤氏の唱えた断層地震説が定説となる過程は、Wikipedia の「断層地震説」の項に以下の様に書かれています:
かつて日本の地震学においては、陥没地震・隆起地震・岩漿貫入など、何らかの地殻の変形が地震となり、その結果として崖崩れなどと同様に断層が作られるという説があったが、断層地震説はそれらに対立する学説である。その後の研究で、地震波の押し波と引き波の分布や地殻変動の調査などから、断層の動きと地震波との関連を示す実証例が認められ、またメカニズムを説明した弾性反発説も実証されたことから、断層地震説が定着した。

「玄武岩」(basalt rock)という言葉を生みだしたのが小藤氏というのは初めて知りました。欧米以外で母国語で高度な研究を行える国は少ないといいます。明治期の先達が生みだした様々な訳語がなければ、我々は日本語で学んだり研究したりすることができなかったことでしょう。ときどきは思い起こして感謝するべきですね。