(この記事の原稿は昨年3月12日に書き始めたものですが、私の急な入院などもあってそのままになっていました。一部を修正・加筆して掲載します。)
昨年3月11日の東北地方太平洋沖地震は 1000年に一度の大地震、あるいは貞観地震の再来と言われています。この貞観地震とはどのような地震だったのでしょうか。『理科年表』(国立天文台編、丸善)には以下のような記述があります:
869年 7月 13日 (貞観 11年 5月 26日) M8.3
三陸沿岸: 城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約1千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。
貞観地震は今から 1100年以上前の平安時代前期、清和天皇の治世に東北地方で起きた大地震です。上に引用した『理科年表』の記述は、六国史(『日本書紀』に始まる 6つの官撰史書)の 6番目 『日本三代実録』 にある以下の記録によるものです:
廿六日癸未,陸奧國地大震動、流光如晝隱映。頃之、人民呌呼、伏不能起。或屋仆壓死、或地裂埋殪。馬牛駭奔、或相昇踏。城埻倉庫、門櫓墻壁、頹落顛覆、不知其數。海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝洄漲長。忽至城下、去海數十百里、浩浩不辨其涯涘。原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許。資產苗稼、殆無孑遺焉。
『日本三代實錄卷十六 清和紀十六』より引用
この記録を現代語訳してみました。漢文はそれほど勉強したわけではないので誤訳があるかも知れませんが、大筋は間違っていないと思います:
二十六日癸未(みずのとひつじ)、陸奧國の地が大いに震動し、流れ走る光が昼間のように明るく、影が映るほどであった。この時、人民は叫び、伏せたまま起きあがることができなかった。或いは家屋が倒れて圧死し、或いは地が裂けて埋まり死んだ。馬や牛は驚いて走り、或いは重なり合い踏みつけ合った。城郭や倉庫、門や櫓(やぐら)や墻壁(石・煉瓦・土などで築いた塀)が崩れ落ちたり倒壊したりし、その数は数えきれないほどであった。海では猛獣の吠え叫ぶような音がし、その音は雷霆(激しい雷)のようで、驚くほどの大波とわき上がる潮がどんどん溯ってきて、その勢いはすさまじかった。たちまち多賀城下まで到達し、海から数十百里、広範囲を覆いその果てがどこなのかわからないほどであった。原野や道路がたちまち広い海となり、船に乗るいとまもなく、山に登って避難することもできず、約千人が溺れ死んだ。財産や苗や収穫は、ほとんど残らなかった。
後半の津波の描写は、東日本大震災と瓜二つといってもよいほど似ています。
「溺死者千許」(溺死スル者千バカリ)は、東日本大震災の津波被害に比べると少なすぎるように思います。理由はいくつか考えられます ―― (1)当時の東北地方の人口密度が低かった、(2)まだ被害の全容が把握できていない段階での陸奥国府からの報告をもとにした記述かも知れない、(3)津波で戸籍が失われたり、集落全員が犠牲になるなどしたため、死者の集計ができなかった、(4)津波被害が大きかったと考えられる三陸海岸一帯は蝦夷の居住地で、被害の調査がおこなわれなかった ―― などなど。
(続く)