「気色悪しくて異なる香ある風の温かなる、吹きて渡る」という『今昔物語集』の文言を見て私がすぐに思い出したのは、アレクサンダー・フォン・フンボルトが南米・ベネズエラで体験した現象です。彼は、ドイツの博物学者・地理学者・探検家で、「フンボルト海流」や「フンボルトペンギン」などにその名を残しています。
以下は、『動物は地震を予知する』(ヘルムート・トリブッチ、朝日選書、1985)からの引用です:
1799年、ベネズエラのクマナ(地図)に滞在中のこと。何日かつづいて、日没のころ一片の赤い雲が必ず地平線上に姿を現し、数分のうちに空全体を霧のベールで覆いつくした。何か尋常でないものを感じて、彼は湿度を測ってみた。すると不思議なことに、雲が出る前には90パーセントあった湿度が、雲が出たあと83パーセントに下がっていた。 (中略) 夜に入ってからしばらくバルコニーで観察してみることにした。やがて霧が濃くなってゆき、月の姿もぼんやりとかすんでしまった。そのとき空気がとても暑苦しく感じられたが、気温はせいぜい26度だった。まもなく空に黒雲が生長してきたかと思うと、とつぜん検電器が激しく反応した。時を移さず、たてつづけに2度の激震が発生した。
まず、「風の温かなる」、つまり、気温が上昇したわけではないのにフォン・フンボルトが暑苦しさを感じた点について ―― 上記書籍の著者・トリブッチは、動物の行動などに現れる地震前兆は大気中の帯電エアロゾルが原因であるとの立場をとっているのですが、このフォン・フンボルトの体験についてもエアロゾルで説明しています:
エアロゾルがふえると、空気の熱伝導度が上がる。大地が冷え切った夜明け前にエアロゾルが発生すれば、体表からの熱放散が促進されて冷たく感じる。反対に、暑い日中の空気にエアロゾルが混入してくれば、体表からの熱放散が妨げられて、いっそうむし熱く感じられるはずである。前に紹介したクマナ地震の際の「赤い地震霧が出てきたとき、気温が上がったわけではないのに異様な暑苦しさを覚えた」というフォン・フンボルトの体験は、このことに他ならない。
次に「気色悪しくて異なる香ある」について ―― フォン・フンボルトは地震の前に硫黄の臭いがしたと記録しているのですが、その点について著者のトリブッチは次のように説明しています:
落雷でもときおり硫黄の臭いがただようという事実を考えると、この臭いの主犯は窒素酸化物ではないかと思われる。空気中で放電が起これば、窒素と酸素が化合して、悪臭をもつ窒素酸化物が生じるはずだ。事実、フォン・フンボルトの報告によると、クマナ地震の30分ほど前、「草に燃えうつりはしない、地面をなめるような火」 ―― 疑いもなく、空中放電によるセントエルモの火 ―― が現れて、同時に「硫黄の臭い」がしたという。このほかの多くの地震でも、発光現象と硫黄臭がいっしょに現れた。
(続く)