2010年7月23日金曜日

火山噴火で 33年地中に閉じこめられた人たち

1783年(天明 3年)の浅間山の大噴火で地中に閉じこめられてしまった人たちが、33年後に救出されたという話です:

大田南畝(大田蜀山人)の記した 『半日閑話』 という書物に記載されている 「信州浅間嶽下奇談」 という話だそうです。

閉じこめられた場所が蔵で、米が 3000俵、酒が 3000樽もあったので生き延びられたということですが、そんなに大量の物資を保管できるほど大きな蔵が当時あったのか、それらの物資が 33年間も食用に適した状態を保てたのか、呼吸する空気はどこから入っていたのか、などなどさまざまな疑問がわき起こります。

松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二十七)に 「信州浅間嶽下奇談」 のもう少し詳しい要約が載っていますので引用します:
9月(文化12年)頃聞いた話だが、夏の頃信州浅間ヶ嶽辺りの農家で井戸を掘った。2丈余(約6.5メートル)も掘ったけれど、水は出ず瓦が2、3枚出てきた。こんな深い所から瓦が出る筈はないと思いながら、なお掘ると屋根が出てきた。その屋根を崩してみると、奥の居間は暗くて何も見えない。

しかし洞穴のような中に、人がいる様子なので、松明をもってきてよく見ると、年の頃5、60才の二人の人がいた。このため、二人に問いかけると彼らが言うには、

“幾年前だったか分からないが、浅間焼けの時、土蔵の中へ移ったが、6人一緒に山崩れに遭い埋もれてしまった。4人の者はそれぞれの方向へ横穴を掘ったが、ついに出られず死んでしまった。私共二人は、蔵にあった米三千俵、酒三千樽を飲み食いし、天命を全うしようと考えていたが、今日、こうして再会できたのは生涯の大きな慶びです”と。

農夫は、噴火の年から数えてみると、33年を経由していた。そこで、その頃の人を呼んで、逢わせてやると、久しぶりに、何屋の誰が蘇生したと言うことになった。

早速、代官所に連絡し、二人を引き上げようとしたが、長年地下で暮らしていたため、急に地上へ上げると、風に当たり死んでしまうかも知れないといい、だんだんに天を見せ、そろそろと引き上げるため、穴を大きくし、食物を与えたという。

1783年(天明 3年)の浅間山の大噴火については『理科年表』(丸善書店)に次のように書かれています ―― 5月9日~8月5日、普通の火山爆発、火砕流、火山泥流、鬼押出し、噴出物総量 2億m³、死者 1151、家屋流出・焼失・全壊 1182、山林耕地被害、気候異変助長。

Smithsonian Institution のデータベースでは、火山爆発指数(VEI)= 4、流出溶岩総量 3億1000万 m³、テフラ総量 4億3000万 m³ としています。

同じ年にアイスランドのラキ山とグリームスヴォトン山があいついで噴火し、世界中の気象に影響を与えました。日本では天明の大飢饉の時期にあたります。