2015年1月28日水曜日

私は○○


フランスの「シャルリー・エブド」紙に対する襲撃事件や今回の日本人人質事件では、〝Je suis Charlie〟や〝I am Kenji〟という言葉がテロリストへの抗議や、犠牲者や人質への連帯の意思表示として使われています。

多くの報道では、〝Je suis Charlie〟は「私シャルリー」、〝I am Kenji〟は「私ケンジ」という日本語を当てていますが、そのような文言がなぜ抗議や連帯の意味になるのか、今ひとつ腑に落ちず疑問に思っていました。

今朝、うつらうつらしているときに思い出したのが、映画「スパルタカス」(監督:スタンリー・キューブリック、主演:カーク・ダグラス)です。紀元前73年に、まだ共和制だったローマで起きた剣闘士(グラディエーター)を中心とした大規模な奴隷の反乱を描いた映画です。

スパルタカスが率いる反乱軍は、一時はイタリア半島を席巻しますが、最後には全滅に近い敗北を喫します。生き残って捕虜となった剣闘士や奴隷たちが集められて座り込んでいると、スパルタカスを見つけようと躍起になっているローマ軍が、「スパルタカスを指し示した者は命を助ける」という条件を出します。スパルタカスは名乗り出ようとしますが、仲間の一人がそれに先んじて立ち上がり〝I am Spartacus〟(私がスパルタカスだ)と叫びます。すると、それに続いて捕虜たちが次々に立ち上がり〝I am Spartacus〟と叫ぶという感動的なシーンがありました:

〝I am Spartacus〟には「私がスパルタカスだ」という意味に加えて、「殺すなら私を殺せ」という含みがあると思います。

話をもとに戻すと、フランスで始まった〝Je suis Charlie〟は「私シャルリー」ではなく、「私シャルリーだ」と訳すべきではないかということです。「私がシャルリーだ(殺すなら私を殺せ)」。これだと、テロリストに対する抗議や犠牲者への連帯の意思表示の言葉として得心がいきます。