関東大震災当時、ドイツに留学中だった斎藤茂吉による『日本大地震』(青空文庫収録)からの抜粋です。 大震災がヨーロッパにどのように伝えられたかが垣間見えます。ドイツで日本の大震災が報じられたのは 9月3日のことだったようです。なお、文中に「消火山」という言葉が出てきますが、休火山のことではないかと思われます。
(9月3日)そこに夕刊の新聞売が来たので三通りばかりの新聞を買ひ、もう半立突の麦酒を取寄せて新聞を読むに、伊太利と希臘とが緊張した状態にあることを報じたその次に、“Die Erdbebenkatastrophe in Japan”と題して日本震災のことを報じてゐる。
新聞の報告は皆殆ど同一であつた。上海電報に拠ると、地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなつた。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
(9月4日)N君の持つてゐるけふの朝刊新聞の記事を読むと、きのふの夕刊よりも稍委しく出てゐる。コレア丸からの無線電報に拠るに、東京は既に戒厳令が敷かれて戦時状態に入つた。横浜の住民二十万は住む家なく食ふ食がない。ロイテル電報は報じて云。東京は猛火に包まれ殆ど灰燼に帰してしまつた。紐育電報が報じて云。大統領 Coolidge は日本の Mikado へ見舞の電報を打つた。それから能ふかぎり日本の震災を救助する目的で直ちに旅順港にゐる米国分艦隊をして日本へ発航せしめた。また、上海投錨中の英国甲鉄艦 Despatech 号も既に日本へ向つて出帆した。なほ、日本の地震はミユンヘンの地震計に感応し、朝の四時十一分頃から始まり五時少し前に最も強く感応した。云々。
(9月5日)けふは、もう日本震災のための死者は五十万と註してあつた。大小の消火山は二たび活動を始め、東京・横浜・深川・千住・横須賀・浅草・神田・本郷・下谷・熱海・御殿場・箱根は全く滅亡してしまつた。政府は一部京都一部大阪に移つた。東京は今なほ火焔の海の中にある。首相も死に、大臣の数人も死んだ。ただ宮城の損害が比較的尠く避難民のために既に宮城を開放した。仏蘭西大使館、伊太利大使館は全く破壊した。帝室博物館、二大劇場、帝国大学、日本銀行、停車場等も廃滅に帰し、電報電信の途は全く杜絶してしまつた。云々。
(数日後)併し飯くひに街頭に出ると、食店にゐる客などが態々私のゐる卓のところまで来て震災の見舞を云つた。ある時には、途中で行過がつた背嚢を負うた一人の老翁がまた戻つて来て、私を呼止めて見舞の言葉を云つて呉れたりした。日本からの直接通信が始めて英京倫敦に届いたといふのが新聞に出たが、それを読むと前に読んだ間接通信の記事内容よりももつと深刻であつた。また民衆と軍隊との衝突があり、朝鮮人と軍隊との市街戦が報じられてあり、新首相山本権兵衛子爵に対する暗殺企図、数名の大臣の死亡なども報じられてあり、五十万の人間と、五億ポンドの財産とが消失されたことを註してあつた。
(或日)日本軍艦数隻が沈没し、伊豆の大島が滅して半島の近くに新しい島が出来、神聖江の島が全く無くなつてしまつたといふ、さういふことなどは余り気にせぬやうになつた。
(10月14日以降)十月十四日にはじめて大阪毎日新聞九月三日の号外を手に入れ皆頭を集めて読んだ、『東京全市焦土と化す』といふ大きな見出しがあり、碓氷峠から東京の空が赤く焦げてゐるのが見えるとも書いてある。これは想像よりもまだまだ悲惨である。十五日には大阪のO君から大阪朝日新聞の週報を受取り、廿一日には参謀本部附のK少佐から大阪朝日新聞を借りて読んだ。深川の陸軍糧秣廠の広場で何十万の人の死んだ所や、両国の橋の墜ちた所などを読んだ。どうも息がつまるやうである。三面の方には、佐渡まで帰らうとしてやうやく長野市の停車場まで落延びて来たひとりの女を見るに、自分の髪の毛が全く焼け焦げ背には焼死んだ子を一人負つてゐるといふ記事などもあつた。
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