哲学者・倫理学者の和辻哲郎の『地異印象記』(青空文庫所収)には、関東大震災当時に広まった流言がいくつか書き留められています。以下に引用する部分には、伊豆大島噴火のうわさや、次の強震の時刻を知らせる「おふれ」のことが記されています ——
自分を驚かせたのは火事よりも大島爆発の噂であった。自分はそれを印絆纏の職人ふうの男から聞いた。その男に注意されて見ると、南の方に真っ白な入道雲がひときわ高くムクムクと持ち上がり、それが北東の方へ流れて、もう真東の方までちょうど山脈のように続いている。真蒼な空に対照してこの白く輝く雲の峰はいかにも美しかった。なるほど南の端の大きい入道雲はだいたい大島の方角のように思われる。がそれにしてもこの短い時間(自分はそのとき最初の震動からせいぜい十分か十五分経ったばかりだと思っていた)の間に大島の噴煙が東京まで飛んでくるのは不思議だと思った。というのは、南方のは大島の上の煙であるとしても、東方まで流れて来ているのは確かに東京の上にあるに相違ないからである。しかしそのときには他にこの雲に対する説明の仕方が思いつけなかった。そうしてあの爆音はなるほど大島の爆発の音だったのだと考えた。こういう噂がひろまり又それを受け容れる心持ちには、我々に最も近い桜島の爆発の知識が働いていたように思う。
(中略)
帰って家族に大島の爆発のことを話し、太陽の直射の激しいことをこぼしながら、しばらく漫然として、あてもなく、しかも呑気な気持ちで、次に起こることを待っていた。二時と五時にまた強震があるというおふれが廻って来たが、危険のない空地にいることとて、家が潰れはしないかという心配のほかには、なんの不安もなかった。
最初の段落の末尾に「我々に最も近い桜島の爆発の知識が働いていたように思う」とありますが、当時の和辻は東京の郊外に住んでおり、過去に鹿児島県に住んだこともないようなので、なぜ桜島が「我々に最も近い」とされているのか、判然としません。関東大震災の 9年半ほど前の 1914年1月に起きた桜島の大正大噴火が脳裏をよぎったということでしょうか。
中略の部分では、大島からの噴煙のように見えた煙の正体について、あれこれ考察しています。
最後の段落には、 「二時と五時にまた強震がある」という、大地震の際にしばしば現れる典型的な流言があったことが記録されています。
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