2018年5月19日土曜日

溶岩流爆撃作戦とパットン将軍 (その1)


ワシントン・ポスト』紙の記事です:

キラウエア山の隣にそびえるマウナ・ロア山)は、世界最大の体積を持つ火山です(富士山の約54倍)。1935年12月、このマウナ・ロア山が噴火しました。噴出した溶岩が少なくとも5本の溶岩流となって流れ出し、そのうちの1本が急速にヒロ地図)の街に迫りました。ヒロは、オアフ島のホノルルに次ぐハワイ諸島第2の港湾都市で、当時の人口は約1万5000人でした。

以下は上記記事の概略です:
クリスマスの数日前、事態は深刻になりました。溶岩流が1日あたり1マイル(約1.6km)で進み、まもなくヒロの水源であるワイルク川に到達する恐れが出てきたからです。さらに、溶岩がヒロの市街に流れ込むまでに残された時間は20日未満と考えられました。

ハワイ火山観測所の創立者である火山学者 Thomas Jaggar は、ヒロを護るためには一つの方法しかないと悟ります。なんとしても溶岩の流れを阻止しなければならない。彼にはプランがありました ―― あの火山を爆撃する。

理論的にも、何ものにもとらわれないアメリカ人の想像力からしても、彼の考えは理にかなっていました。火山の中にある自然のチューブを吹き飛ばしてしまえば、その中を流れている溶岩の流れを止めることができる。

しかし、火山を爆撃することは、それまで試みられたことはありませんでした。Jaggar は、200マイル彼方のオアフ島に駐屯している米国陸軍航空隊に助けを求めました。そして、ジョージ・S・パットン中佐に史上初の火山への空爆作戦の指揮する任務が与えられました。中佐は、後に第2次世界大戦のヨーロッパ戦線で将軍として指揮を執り、ドイツをナチの支配から解放することになります。

1935年12月27日、10機の爆撃機が各々2発の600ポンド(約270kg)の破壊用爆弾を積んで、自然を打ち負かすために出撃しました。当時の爆撃機は、布製の翼を張った複葉機でした。

その日、爆撃機の編隊は20発の爆弾をマウナ・ロア山に投下し、5発が溶岩流を直撃しました。大きなクレーターができ、すぐに溶岩で満たされました。他の爆弾は目標を外れ、1発は不発でした。

約1週間後の1月2日、溶岩は止まりました。計画を発案した Jaggar は大喜びしました。「実験がこれほどうまくいくとは思わなかった。まさに期待したとおりの結果だ」と Jaggar は『ニューヨーク・タイムズ』紙に語っています。

Jaggar は計画が成功したと確信していましたが、他の科学者たちはそれほど自信を持っていませんでした。 政府の地質学者で、爆撃機に搭乗していた Harold Stearns は1983年の自伝で マウナ・ロア爆撃作戦とその成功について次のように書いています ―― あれは偶然だったと私は確信している。

Jaggar の当時の上司でハワイ国立公園の最高責任者であった E.G. Wingate も懐疑的でした。1935年12月の報告書で Wingate は次のように書いています ―― 溶岩流を阻止することにおいて、爆撃がどのような効果を及ぼしたのか、当職が言及するのは適当ではない。たしかに、溶岩流を阻止できたという事実はもっとも興味深いことである。そして、Jaggar 博士は実験が決定的な役割を果たしたと確信している。

後の時代の科学者たちも爆撃の効果については懐疑的です。1980年に火山学紀要(Bulletin of Volcanology)に掲載された学術論文では、爆撃には目立った成果はなかった、とされています。

(続く)


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