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2025年5月30日金曜日

見えてきた地震痕跡分布の特徴

 
奈良文化財研究所は、全国の発掘調査で見つかった地震痕跡 1620地点のうち、断層付近以外にも分布が集中する場所が複数あることが分かったと発表しました。
  1. 地震痕跡の分布の約7割は、断層の分布と調和的である。
  2. 地震痕跡の残り3割以上に、断層とは異なる分布傾向が見出された。
  3. この地震痕跡の分布傾向は、「過去の地形」とその変遷に対して相関性が示唆される。 

2025年1月9日木曜日

謎の金属オリハルコンの正体

 
古代の文献で、特にアトランティスに関連して語られることが多い謎の金属オリハルコン(orichalcum)についての記事です:
 
以下は記事の概略です ——
 
古代の文献には、オリハルコンという奇妙で貴重な金属についての記述がある。この神秘的な金属は、地中海で大量の埋蔵物が発見されるまで、空想上の発明として片付けられてきた。

オリハルコンの名前はギリシャ語で「山の銅(mountain copper)」を意味する。最もよく言及されているのはプラトンによるアトランティスの伝説で、その中では「金以外の何よりも貴重」とされている。対話篇「クリティアス」では、アトランティスの城塞の壁、柱、床がオリハルコンで飾られ、建物が「赤い光」の閃光を放っていたと説明されている。

また、紀元 1世紀の作家キケロや大プリニウスの作品を含む、他のいくつかの古代の文書にもオリハルコンは登場する。

赤みがかった色をしていると言われることが多いオリハルコンは、銅と亜鉛の合金である真鍮の一種である可能性を示唆する多くのヒントがあったが、その正確な正体は、現代の科学と考古学のいくつかのブレークスルーまで明らかにされていなかった。

2014年、現代のシチリア島にある古代ギリシャの町ジェラ(Gela)の沖合の地中海で、ダイバーが合金のインゴット(鋳塊)40個を発見した。2016年に地元当局が行ったさらなる調査では、最初の発見場所からわずか 10m 離れた場所で、さらに 47個のインゴットが見つかった。インゴットの 2つの発見場所は、約 2500年前に海底に沈んだ難破船であることは明らかであった。

インゴットは銅と亜鉛の合金であることが判明し、古代のオリハルコンの束であることを示唆していた。

科学者たちは、古代ローマのコインにもオリハルコンの証拠を発見したと考えている。この時代のコインのほとんどは、金、銀、青銅、銅でできていた。しかし、2019年の研究では走査型電子顕微鏡を使用して、アウグストゥス(紀元前 23年)とネロ(紀元 63~64年)の改革後に鋳造されたコインの一部は、最大 30% の亜鉛を含む銅亜鉛合金、つまりオリハルコンで構成されていたことが示された。

つまり、オリハルコンはよく描かれているほど謎めいたものではないことがわかったのである。この金属は、化学的には真鍮と根本的に異なるわけではなく、「オリハルコン」は特定の種類の真鍮を表すためによく使用された古代の用語ということである。ただし、その構成は時間の経過とともに変化し、亜鉛、銅、不純物の濃度が異なっている。

アメリカの化学者で化学史家のアール・ラドクリフ・ケイリーは 1964年の論文に次のように書いている ——「厳密に言えば、オリハルコンという用語は、単一の合金ではなく、銅と亜鉛を主成分とする合金のクラスを指すと理解する必要があります。このクラスのローマの合金は真鍮と呼ばれることもありますが、現代の真鍮のほとんどの種類よりも亜鉛の含有量が少ないのです。ですから、オリハルコンは特定の種類の真鍮製品を指すのに便利で独特な用語なのです。」
 

2022年9月15日木曜日

古代の溶岩に残る謎の手形と足形

 
手や足を押しつけたら凹むような状態の溶岩というのは、まだかなり高温だと思うのですが、この手形と足形を残した女性(?)は無事だったのでしょうか ——
 
米国北西部ワシントン州の活火山・レーニア山の南に広がる広大なギフォード・ピンチョット国有林(地図)。西部には1980年に大噴火で山体崩壊を起こしたセント・ヘレンズ山もそびえています。
 
この国有林の南東部にグース湖(Goose Lake、地図)という小さな湖があり、その水面下にある約8100年前の溶岩(玄武岩)の表面に一組の手形と足形が確認されています: 
 
以下は、上掲記事からの抜粋・テキトー訳です:
 
かつては乾いた土地にあったこの手形と足形は、現在ではほとんどの期間、水中にある。この手形と足形は、ビッグ・ラバ・ベッド(Big Lava Bed)と呼ばれる地形の端にある融けた岩(現在は玄武岩)に手足を押しつけて残されたもので、人間の手形と足形が一組ずつ残っている。地質学者によると、この手形と足形は何千年も前からそこにあったとのこと。入植者が初めて気づいたのは1890年代のことと考えられている。
 
ギフォード・ピンチョット国有林の遺産プログラム・マネージャーである Matthew Mawhirter 氏は、グース湖の手形と足形を見ると、それがどのように作られたかを推測するのは容易だと言う。「まるで誰かがそこに立っていたかのように、2つの足形が並んでいます」、「岩から飛び降りて両足で着地したものの、勢い余って前に倒れそうになり、自分をささえるために両手を地面につき、それから、立ち上がろうとして手で地面を押したかのように、2つの手形は2つの足形の少し前にあるのです」
 
手形と足形は、その大きさから、女性か10代の少女のものと考えられている。
 
ビッグ・ラバ・ベッドは約8,100年前に溶けた岩石で形成されたので、これはまさに古代の歴史であり、今はエバー・グリーン州(ワシントン州のニックネーム)と呼ばれている場所に住んでいた人間の特別な(そしておそらくはトラウマになるような)瞬間を意図せずに記録しているのである。
 
「完璧な手形と足形があるのに、まわりには何もないのです」、「しかも、溶岩流の端にあるわけでもないんです」、「私は火山学者ではありませんが、岩がまだ柔軟であるためには、その上に立つことはおろか、素肌をつけたくないほど高温でなければならないと想像できます」と、Mawhirter 氏は語る。

森林局は長年にわたってこの手形と足形にまつわる先住民の物語を集めてきた。その中には、若い乙女が悪霊から逃れるために山の頂上から飛び降りたという話も含まれている。
 
 

2021年7月1日木曜日

サメに襲われた人骨 — 世界最古の記録

 
すでに新聞などでも報じられていますが、1919年に岡山県の津雲貝塚(地図)から発掘された左手と右足のない約 3000年前の人骨が、サメに襲われた世界最古の人骨であることがわかりました。発掘から約 100年間、千人を超える研究者が目にしてきた人骨であるにもかかわらず、誰も気づかなかった新発見は、イギリスのオックスフォード大学から京都大学に来ていた大学院生のお手柄だそうです。

「傷があることは知られていたが、誰も深く探究しなかった。サメのかんだ痕と言われ『しまった。そうだったのか』と思った」:

この報道を見て思い出したのが、『出雲国風土記』に記録された語臣猪麻呂(かたりのおみゐまろ)の逸話(毘売埼伝承)です。現代語訳を『風土記 上』(中村啓信監修、角川ソフィア文庫、2015)から引用します(空白行の挿入は当ブログの筆者):
さて、北の海に毘売埼(地図)がある。 飛鳥浄御原宮で天下をお治めになった天皇(天武天皇)の御世の甲戌年(674)七月十三日、語臣猪麻呂の娘がこの埼をさまよっていて、たまたまワニ(サメ)に襲われ、殺されて帰らなかった。
 
その時、父の猪麻呂は、殺された娘を浜のほとりに埋葬し、激しく悲しみ怒って、天を仰いで叫び、地に躍り上がり、歩いてはうめき、座り込んでは嘆き悲しみ、昼も夜も苦しみ、娘を埋葬した場所から立ち去ることはがなかった。
 
[中略]
 
神に祈り訴えて、「天つ神千五百万、国つ神千五百万、さらにこの国に鎮座しておられる三百九十九の神社、また海神たち。大神の安らかな魂は静まり、荒々しい魂はすべて、猪麻呂が願うところにお依りください。本当に神霊がいらっしゃるのならば、わたしにワニ(サメ)を殺させてください。それによって神霊が本当の神であることを知るでしょう」と言った。
 
しばらくして、ワニ(サメ)が百匹ばかり、静かに一匹のワニ(サメ)を囲んで、ゆっくりと連れて寄ってきて、猪麻呂のいるあたりで進みもせず退きもせず、ただ連れてきたワニ(サメ)を囲んでいるだけであった。その時、猪麻呂は、鉾をあげて中央のワニ(サメ)を刺し、とうとう完全に殺し捕らえてしまった。その後、百匹ばかりのワニ(サメ)は、思い思いに去っていった。ワニ(サメ)を斬り裂くと、娘の片脚が出てきた。そこでワニ(サメ)を切り裂いて串に刺し、路のほとりに立てた。
 
今回、京都大学で「発見」された人骨が片脚を失っている点は、猪麻呂の娘と共通しています。また猪麻呂の逸話の舞台となった島根県安来市にある毘売塚古墳(地図)からは、欠損のある人骨が見つかっています。猪麻呂の娘の墓と考えたいところですが、年代は 5世紀のものとされていて、猪麻呂の時代より 200年ほど前のものということになります。
 

2021年6月4日金曜日

未だに臭う中世のトイレ — デンマーク

 
古い記事ですが、デンマークのオーデンセ(アンデルセンの生誕地、地図) で発掘されたトイレの遺構。1300年代に便器として使われていた木製の樽の中には、保存状態の良い糞尿が残っており、700年の時を経ても悪臭を放っていたそうです:
 
樽の中身の分析からは、 当時の人々がラズベリーをよく食べていたことがわかったとのこと。また、トイレットペーパーが発明される前には何が使われていたのか —— 見つかった答は、苔、皮革、布の小片でした。

日本では、地域によっては江戸時代後期まで、糞箆(くそべら)あるいは籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる棒状の木が使われていました。使用後は乾燥させたり、水洗いしたり、表面を削ったりして再利用されることもあったといいます。使った後の割り箸を再利用することもできるので、SDGs の一環として、環境大臣には率先して糞箆の使用を実践していただきたいものです。

2018年4月15日日曜日

アトランティスという寓話


以下は3月3日付で米国版 Newsweek 誌に掲載された記事です:

いずれ同誌の日本語版に翻訳が掲載されると思っていたのですが、現時点でも見つかりません。そこで、以下に記事の主要部分を抜粋・テキトー訳してみました:
ノースウェスタン大学教授でプレートテクトニクスと地球科学が専門の Seth Stein 氏によると、真の古代文明としてのアトランティスを排除する強力な理由の一つは、それがまだ見つかっていないという事実である、ということだ。

「今日の海底地図作成技術は極めて高度なものです。科学者たちは海洋底を「見る」ために、音波のパルスを発射して海の深さを測定するソナー技術を使っています。この技術を使って(大西洋の)すべての海底の地図がすでに作られているのですが、アトランティスは見つかっていません」と Stein 氏はニューズウィーク誌に語った。(アトランティスが正確にはどこにあったのかについては多くの説がある。)

「私たちは大西洋について非常に精度の高い海底地図をすでに手にしているのですが、そこに大陸の痕跡は見当たりません」と Stein 氏は話す。「もし失われた大陸があったのであれば、とっくの昔に見つかっているはずなのです。」 他の(大西洋以外の)海洋についても同様である。

万が一、この高度な地図作成技術が(アトランティスの)沈んだ都市を見逃すことがあったとしても、沈んだ都市が存在すること自体が科学的に不可能なのだ。Stein 氏によれば、密度の低い物体は、それよりも密度の高い物体の中に沈んでいくことは絶対にできない。より具体的に言えば、大陸が海底に沈んでいくことは不可能なのである。

長い時間をかけた海水面の上昇や下降によって、島々が消滅したように見えることがある。しかし、島々は沈んだのではなく、単に一時的に海水に覆われたにすぎない。島々は浸食されることがある。天候や海洋などの自然の要因が土壌を削ることによって生じるプロセスだ。しかし、浸食作用では大陸が消え去ることを説明することはできない。

アトランティスの物語は、歴史的なフィクションというよりは寓話として始まったのかも知れない。アトランティスについて最初に言及したのは紀元前330年前後のプラトンまで遡るが、道徳的な教訓を垂れるために創作された可能性がある。アトランティスの人々は文明的には進歩していたが、強欲であったことが彼らを滅亡に導いたのだ、と Live Science(科学ニュースのウェブサイト)は書いている。

あればおもしろいかも知れないが、大西洋の海底には古代の大陸は存在していない。

アトランティスは存在していないし、過去にも決して存在していなかったということは、現在では多くの科学的な証拠にもとづいて保証されている。

以下は、Live Science に2月28日付で掲載された記事です。記事の末尾には「『アトランティスの失われた都市』は決して失われてはいない。それは、これまでも常にそうであったようにプラトンの著作の中に存在している」と書かれています:

以下は、『ナショナル ジオグラフィック』誌に掲載された記事です。「プラトンはおごれる者の寓話を見事に描いたが、あまりにも緻密な描写とアトランティスをめぐる熱狂のため、物語が持つ真の意味はかき消されてしまったようだ」:

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2018年1月8日月曜日

南極大陸に古代文明の痕跡?


これはいったい何なのでしょうか(地図)。自然の産物にしては規則的すぎるし、人工の階段にしては大きすぎます。画像処理の過程で入りこんだノイズ的なものでしょうか。最寄りの基地は、ロシアのミールヌイ基地とオーストラリアのデーヴィス基地なのですが、調査は行われていないのでしょうか:

2015年9月18日金曜日

阿蘇山あり


桜島や箱根山の噴火警戒レベルが9月1日と11日に引き下げられたと思ったら、14日には阿蘇山が噴火して警戒レベルが「3(入山規制)」に引き上げられました:

この阿蘇山は、海外に伝えられた最初の日本の火山ではないでしょうか。中国の正史『隋書』は倭国(俀國)の風土・習俗などを記述したあと唐突に次のような文言を記載しています:
阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接する者、俗以て異となし、因って祷祭を行う。(『新訂 魏志倭人伝 他三篇 ― 中国正史日本伝(1)―』、石原道博、岩波文庫、1994)

富士山でもなければ、飛鳥・大和に向かう途中で必ず目にしたであろう世界最大の墳墓・大仙陵古墳(宮内庁によれば仁徳天皇陵)などでもなく、九州の阿蘇山を特筆したのはなぜでしょうか。隋帝国の領域には活火山がなかったため特に珍しかったということもあるかも知れませんが、これは隋と交流があった倭国が九州にあったことを示しているのかも知れません。

『隋書』は、倭国王が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という国書を送って隋の皇帝を怒らせたという故事が載っていることで有名です。定説ではこの国書を送ったのは大和朝廷の推古天皇や聖徳太子だということになっていますが、様々な矛盾や疑問点が指摘されています(例えば、推古天皇は女帝であるのに、倭国王には妻があり、「後宮に女六、七百人あり」と書かれていることなど)。

ここから九州王朝説に話が飛びます。

中国側の歴史書には、日本列島の支配権が倭国から日本へ移ったと受け取れる記述があります。

『隋書』の次の『旧唐書』では倭国と日本が別々に記述されています。倭国については「古(いにしえ)の倭奴国なり」とする一方、日本については「倭国の別種なり」と述べ、さらに「或いは云う、『日本、旧(ふる)くは小国なれども、倭国の地を合わせたり』」、つまり、小国だった日本が倭国を併合したと言う者もいると記しています。

唐側は日本からの使者の説明に納得していなかったようで、使者について「多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以て対(こた)えず。故に中国は焉(これ)を疑う」と書いています。

『旧唐書』に続く『新唐書』では、倭国に関する独立した記述は消えて日本に一本化され、「日本は、古の倭奴なり」として、神武から光孝に至る天皇の系譜を載せています。

以降の中国の正史も全て、日本または日本国として記述しています。

九州王朝説とは ―― 大和朝廷に先行して九州には卑弥呼の邪馬台国に連なる王朝が存在し日本列島の支配者として君臨していた。古くから中国に使者を送っており、中国側の歴史書に記録された倭国はこの九州王朝である。朝鮮半島への出兵を繰り返していたが663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗して衰退し、700年ごろに日本列島の支配権は近畿の大和朝廷に移った。大和朝廷は九州王朝の歴史を取り込んで太古より列島の支配者であったかのように自己の歴史を捏造した ―― というもので、最初に唱えたのは古田武彦氏です。学会からは無視されたり異端視されたりしていますが、日本列島の支配者は初めから近畿王家であるという定説にみられる様々な矛盾やモヤモヤをスッキリさせてくれる説です。

九州王朝説は古田氏以降、様々な人が修正したり自説を加えるなどして変化し様々なバリエーションができています。根拠の希薄な主張も加えられたりした結果、現時点でウィキペディアに見られる解説などは古田氏のオリジナルからはかなりかけ離れています。古田氏の九州王朝説を正確かつ簡潔にまとめたものとして、以下を紹介します:

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2015年9月8日火曜日

バスク人の系統判明


スペインとフランスの国境となっているピレネー山脈。その西端部のバスク地方(地図)に居住するバスク人は系統不明の民族とされ、その言語はヨーロッパのいかなる言語とも類縁関係がないとされています。そのため、バスク人はアトランティス文明を築いた人々の直系の子孫で、アトランティス大陸が大西洋に没したため、バスク地方に移り住んだのだ、という説が出されたこともあります。

このほど、そのようなバスク人の由来を解き明かしたとする論文が発表されたそうです:

上記記事によると ――
バスク人は狩猟民と農耕民が混合した集団の子孫で、数千年にわたって他の集団から孤立してきた。スペイン北部の El Portalón(地図)で発掘された3500年前から5000年前の石器時代に属する頭骨のゲノム(遺伝情報)を解析した結果、これらの頭骨は現代バスク人の祖先にあたるものであることが判明。この祖先は「先住民」であって他地域からの植民者ではない。別の言い方をすれば、彼らは中近東に淵源を持ち、7000年前にスペインに定住した。

バスク人が長期間にわたって他の民族から孤立していた理由ははっきりしないが、地理的な要因と文化的な要因が関係していたとみられる。ヨーロッパ中にインド・ヨーロッパ語族の言語を広めた植民者たちとは明確に異なっていた。さらに、西暦711年にアラブ人がイベリア半島を征服したときにもバスク人には影響が及ばなかった。

われわれ日本人にとってバスク人はなじみが薄いかも知れません。しかし、日本人の間でも知名度の高いバスク人がいます。なんと言っても、知名度の筆頭はフランシスコ・ザビエルでしょう。さらに、南米大陸の5ヵ国をスペインからの独立に導いたシモン・ボリバル。彼の名前はボリビアという国名にもなっており、ベネズエラ、コロンビア、ボリビア、ペルーの大統領を歴任しています。また、バレエ音楽「ボレロ」や「ダフニスとクロエ」の作曲者モーリス・ラベルはバスク系フランス人です。

さらに付け加えるならば、ベレー帽はバスク地方が発祥地です。キューバ革命に携わったチェ・ゲバラは父親がバスク系で、バスク・ベレーを愛用していました。彼の有名な写真もベレー帽をかぶった姿です。


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2014年2月18日火曜日

トリノの聖骸布と西暦33年の大地震


十字架に磔にされたキリストの遺体を包んだとされる「トリノの聖骸布」(Shroud of Turin)の年代と、それにネガ状に転写されている痩せた男性の全身像について、イタリアの研究チームが新説を出しました。

新説は ―― 聖骸布の素材は西暦33年にエルサレムを襲った M8.2 の大地震によって放出された大量の中性子によって炭素14のレベルが上がっている、したがって、これまで放射性炭素年代測定法によって出されていた年代(13世紀から14世紀とする説が有力)は誤りで聖骸布の製作年代は西暦紀元前後のキリストの年代まで遡る、また、布に写っている男性のネガ画像は大量の中性子線によって布に焼き付いた可能性がある ―― と主張しています:

大地震によって大量の中性子が放出されるというのは本当でしょうか。当然のことながら、多くの反論や批判が出ています。「そのような現象がこの遺物にだけ起こって、他の考古学的/地質学的資料には生じていないのはなぜなのか」というのが基本的な疑問点であり、反論でしょう。ワシントン・ポスト紙の編集主任は疑似科学やナンセンスの類いと書いています:

新説を出したチームのリーダーはトリノ工科大学の教授です。科学者といえども宗教や信仰が絡むと理性的な判断ができなくなるということでしょうか。


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2012年9月7日金曜日

南極大陸にピラミッド !?


探検家のチームが、南極大陸で少なくとも3つのピラミッドを発見したという「ニュース」です。

以下は、記事の一部をテキトー訳したものです:
驚くべきことだが、ある研究者のチームが、氷に覆われた南極大陸で数個の古代のピラミッドの証拠を発見したと主張している。 
これまでのところ、同チームはその発見についてあまり多くの情報を発表していないが、最近、数枚の写真がインターネット上にリークされている。それらの写真に写っているものが本当に人工的なピラミッドなのか、あるいは単なる岩山の頂上部なのかの判断は読者にゆだねたい。しかし、私の考えでは、それらの写真に写っているものは興味深く、明らかにさらなる調査が必要なものである。 
これらの写真以外には、同チームは発見について固く沈黙を守っている。これらのピラミッドについてさらなる調査がおこなわれるまではこのままだろう。しかしながら、私は同チームのメンバーの友人から、わずかではあるが情報を得ることができた。同チームは米国やヨーロッパ出身の8人のメンバーで構成されている。2つのピラミッドは海岸からおおよそ10マイル(約16km)の地点にあり、3番目のピラミッドは海岸に非常に近いところにある。現在、同チームはピラミッドの少なくとも一つに実際に到達し、それが人工のものか、自然の造形かを究明する遠征を計画している。遠征の時期は明らかになっていない。

非常に疑わしい「記事」です。ピラミッドを発見したというチームの所属(大学、研究機関)や発見の時期についても明らかにされていません。また、掲載されている写真が、実際にこのチームが撮影したものかも確認できません。数枚の写真をもとに捏造された物語ではないでしょうか。写真に写っている「ピラミッド」も、たまたまピラミッドのような形をした自然の山の頂上部や氷と考えたほうが自然です。特に後者の場合、「ピラミッド」は海に流れ出しつつある氷床に取り囲まれており、すでに海の上にせり出している可能性もあります。岩石を積み上げてできたピラミッドがそのような状況で安定していられるでしょうか。そもそも古代に築造されたピラミッドが、長期間の氷床による浸食に耐えて形状を保っているとも考えられません。


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2012年8月30日木曜日

ギザの3大ピラミッドと3惑星整列


インターネット上に以下のような画像が流布しています:

Image Credit: Universe Explorers

画像には次のような説明がついています:
2012年12月3日の惑星の配列は、ギザのピラミッドの配置と完璧に一致する。現地時間12月3日、エジプトのギザの夜空 ・・・ 日の出の1時間前。この様な現象は2737年に1度しかおこらない。

オカルトやスピリチュアル系の話に毒されている人たちは、この様な現象から何らかの意味をくみ取ろうとするかもしれません。

しかし、12月3日にギザのピラミッドを訪れても、この様な光景を見ることはできないのです。すでに天文学関係のウェブサイトやブログで明らかにされていることですが、以下にその理由をまとめてみます:
  • 12月3日、夜明け前の南東の空で、水星-金星-土星が直線上にほぼ等間隔で並ぶことは事実である (実際には直線から少しずれている)。しかし、これら3惑星を結ぶ直線は垂直に近い角度で地平線と交差する。ギザの緯度を考慮に入れても、流布している画像に見られるような水平に近い角度で並ぶことはない。したがって、3大ピラミッドの各々の真上に惑星が一つずつ輝くように見えることはない。
  • 流布している画像には、向かって左からメンカウラー王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、クフ王のピラミッドが並んでいるので、ギザの3大ピラミッドを南西(あるいは南南西)の方向から北東に向かって撮影したものである(以下のピラミッド配置図を参照してください)。このことは、画面左側に「王妃のピラミッド」群がシルエットとして写っていることからも確認できる。一方、3つの惑星が並ぶのは南東の空であるので、流布している画像のように見えることはない。


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2012年2月9日木曜日

アクセス急増


昨夜10時から11時の間、このブログへのアクセスが急増し、1時間当たりのページ・ビュー数が平常の8倍近くに達しました。1時間当たりのページ・ビュー数としては、2008年12月にこのブログを始めて以来の最高値ではないかと思います。

これまでにも、リファラー・スパムのターゲットにされたり、どこかの掲示板にこのブログへのリンクが張られたりしたときにアクセスが急に増えたことがありますが、今回の増加はとりわけ急激でした。

その時間帯に最も多くアクセスされたのは、2009年12月25日付の「加速しながら移動する磁北極」という記事です。Yahoo で「磁北極」あるいは「磁北極 移動」を検索してこのブログを訪れた方が多かったようです。

調べてみたところ、フジテレビ系列の『ベストハウス123』という番組でピラミッドの謎を取り上げ、その中に磁北極が移動しているという内容があったのがアクセス急増の原因であったようです。恐るべし、テレビの力。以下は、同番組の内容を詳述しているブログです。番組を直接見たわけではありませんが、以下を読んだ限りではトンデモ説の範疇に入ると思われます:

上記番組がピラミッドを取り上げたのは、以下の映画の公開と関連しているようです:

上の映画については、以下のようなネガティブな評価があります。私もあまり見たいとは思いません:

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2011年11月16日水曜日

2011年8月7日日曜日

海底のUFO? ― バルト海


バルト海の海底に円盤状の物体が沈んでいるのを、スウェーデンの海底調査チームがソナーで発見し話題となっています。円盤状の物体の直径は約60mで、その周りには円盤が滑走したような海底の乱れもあり、墜落したUFOではないかとの憶測もでています:

さまざまな説が出ています ―― 墜落した地球外の宇宙船である、第2次世界大戦中の戦艦の回転式砲塔(rotating gun turret)である、古代の建物の遺跡である、などなど。ほとんどの報道が指摘しているのは、映画『スター・ウォーズ』に登場する〝ミレニアム・ファルコン号〟によく似ているという点です。

私は、カブトガニの甲羅を連想しました。また、以前話題になった「ハイチのUFO」にも少し似ているようです。ただし、「ハイチのUFO」映像はコンピューター・グラフィックスによる合成であることが、すでに明らかになっています。

以下は、UFO(地球外の宇宙船)説を批判している記事です:

直径から考えて戦艦の回転式砲塔とは考えにくく、古代の建造物の遺跡というのがもっとも可能性が高いのではないでしょうか。

ちなみに、海底で見つかった正体不明の物体や構造物を〝USO〟(Unidentified Sunken Object)と呼ぶようです。日本語では「うそ」になってしまいます。


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2009年12月1日火曜日

遺跡と天体の写真

昨日の記事「2010年はイースター島で皆既日食」で、モアイ像と皆既状態の太陽や南十字の写真を撮れたら…、ということを書きましたが、なぜそう思うのか。以下の写真で感じていただけるかもしれません:
悠久の時の流れと無限の宇宙の広がりが、ひしひしと迫ってきます。この感覚が、私にはかけがいのないものなのです。

2009年11月2日月曜日

シュメル神話の中の地震

今、『シュメル神話の世界』(岡田明子・小林登志子、中公新書)を読んでいるところです。多数の神名・人名・地名が出てくるので、巻末の索引を何度も引きながら少しずつ読み進んでいます。そのため、読み始めてからかなり日数が経っているのに、まだ全体の 4割程度のところまでしか、読めていません。

神話というものは、昔から伝わっているもので、作者の名前が明らかになっているものというのは少ないと思います。しかし、驚いたことに世界最古の神話ともいわれるシュメル神話の中に、作者の名前や素性が推定できるものがあるのだそうです。『イナンナ女神とエビフ山』の物語がそれで、愛と豊饒の女神、天の女王、王権の守護神とされるイナンナ女神の「武勇」を記述し賛美する内容です。

この物語の作者として推定されているのは、アッカド王朝の創始者サルゴン大王(紀元前 2334~2279年)の娘・エンヘドゥアンナです。彼女は「史上最古の名の知られた詩人」で、アッカド語に加えてシュメル語も堪能な教養ある女性だったそうです。父親の意向でシュメルの中心都市ウルの初代大神官に就任し、『シュメル神殿賛歌集』を編纂し、イナンナ女神を賛美する多くの詩を残しています。
ここでちょっと世界史の復習: メソポタミア文明はティグリス・ユーフラテス川の流域に栄えた文明で、おおよそ現代のイラクの領土に相当する地域に多くの都市が分布していました。この地域は大きく分けて、北部のシリアに近い地域がアッシリア、南部のペルシャ湾に近い地域がバビロニアと呼ばれます。そのバビロニアの中で、北部(現在のバグダッドのあたり)がアッカド、南部がシュメルです。
話をもとにもどして、『イナンナ女神とエビフ山』の物語の一部を上記書物から引用します:
女神イナンナは山の端を一歩一歩進んでいくと、エビフ山の首根っこをむんずと掴んで、その体内深く刃を突き立て、雷鳴のごとく咆哮した。エビフ山を形成していた岩々が崩れ落ち、そのあらゆる割れ目から恐ろしい蛇たちが毒液を吐き出す。女神イナンナは森をののしり、木々を呪った。旱魃で樹木を殺し、火を放ち、もうもうたる煙で包んでしまった。
(中略)
女神は崩れ落ちたエビフ山に近寄り、「お前があまりにも天に近づきすぎ、あまりにも魅力的で美しく、聖なる衣装をまとったがゆえに、そして私に恭順の意を示さなかったがゆえに、身を滅ぼしたのだ」と勝利を宣言した。
この描写が大地震の記憶を反映しているのではないかとの説があるそうです。エビフ山は実在した山で、現在の名前はジェベル・ハムリン。イラン南部からトルコに向かって北西に伸びるザグロス山脈の一角です。そこに、紀元前 9500年頃の大地震によって崩れた痕跡(断層崖?)が数百キロメートルにわたって残っているとのことです。物語の中の「雷鳴のごとく咆哮」は地鳴り、「あらゆる割れ目」は地割れ、「恐ろしい蛇たちが毒液を吐き出す」は噴砂現象といったところでしょうか。かつて、この山の周辺に火山があったのかどうか。もしあったとすれば、「森をののしり、……火を放ち、もうもうたる煙で包んでしまった」は、火山災害を描写しているのかも知れません。

ザグロス山脈では、アフリカ-アラビア・プレートとユーラシア・プレートが衝突しています。どちらのプレートも大陸性の地殻を持っているため、海溝のような単純な沈み込みとはなっていませんが、どちらかというと前者が後者の下に潜り込む形になっています。

2009年10月2日金曜日

マグニチュード 10.5 (続報)

6月 19日付の記事「マグニチュード 10.5」でローランド・エメリッヒ監督の映画「2012」を紹介しましたが、この映画のさらに新しい予告編が 10月 1日に公開されました。情報を小出しにして映画への関心を高める作戦なのでしょうが、これまで公開されていたものと比べて、かなり長い予告編となっています:
予告編を見たかぎりでは、惑星直列、太陽面の巨大フレア、ポールシフトなどによって、人類が滅亡の危機に瀕するストーリーのようです。シナリオの完成度は「?」ですが、個々の災害シーンはよくできているように思います。

アメリカ人の中には、カリフォルニア州がいずれは大地震によって太平洋に沈んでしまうと思っている人がかなりいるようです。私の知人の中にも真顔でそのように話す人がいました。そのようなアメリカ人にとっての悪夢を映像化したと思われる大地震と水没のシーンも予告編には含まれています。

USGS(米国地質調査所)のサイトにも、FAQ(よくある質問)の一つとして、「カリフォルニア州はいずれは海に沈んでしまうの?」という質問が取り上げられています:
古いバージョンですが、日本語字幕つきの予告編が以下にあります:

2009年6月21日日曜日

ストーンヘンジの夏至

日本時間 6月 21日午後 2時 46分、夏至になります。地理学上の北極点がもっとも太陽の方に向く瞬間です。別の言い方をすれば、地軸の北半球側がもっとも太陽の側に傾く瞬間です。

以前はあまりなかったと思いますが、イギリスでは夏至の日の日の出をストーンヘンジで迎えようとする人が増えているとのことです。ケルト文化やドルイド教などアングロサクソンよりも前に存在した土着の文化に対する再評価の気運や、いわゆる “ニュー・エイジ” の影響などが背景にあるのでしょうか。人出の増加に伴って、飲酒や薬物による風紀の乱れも深刻になっているようです。今年は夏至と日曜日が重なっているため、特にたくさんの人出が見込まれており、これまでにない警備体制が敷かれるとイギリスの各メディアが伝えています:
ストーンヘンジの航空写真と地図が以下にあります。ストーンヘンジ以外にも、円形の遺跡やその痕跡(クロップマーク)が見えています:
私は、かなり前のことですが、冬至に近い日にストーンヘンジを訪れたことがあります。霧雨が降ったり止んだりする陰鬱な 12月の日曜日でした。一人で自動車を運転して行ったのですが、休日にもかかわらず人出はほとんどなく、霧に包まれた遺跡を堪能することができました。遺跡はソールズベリー草原のまっただ中にあります。道路をはさんで遺跡とは反対側にある駐車場に車を止め、道路の下の地下道を抜けて草原の中の遺跡に近づくと、駐車場や土産物店がまったく見えなくなりました。それらは、半地下式に作られていて、遺跡周辺の景観を壊さないように配慮されていました。これには感心しました。

関連情報:
Image Credit: U.S. Central Intelligence Agency