2016年6月4日土曜日

富士山の延暦大噴火と坂上田村麻呂


富士山の3大噴火(延暦、貞観、宝永)の一つである延暦大噴火(800~802年、延暦19~21年)を調べているとき、日本人なら誰でもが知っている坂上田村麻呂がこの延暦大噴火を目撃していたかもしれないということに気づきました。

坂上田村麻呂は少なくとも3回、東北地方に遠征していますが、2回目と3回目の遠征の往路と帰路で、噴煙を上げている富士山や、噴石や火山灰に覆われた箱根山を目にしていた可能性があります。

以下は『日本後紀(上)』(森田悌、講談社学術文庫、2007)を参考にして作った略年表です:

年月日 (旧暦) 出来事
19年6月6日 駿河国から富士山噴火の報告届く 「去る3月14日から4月18日まで、富士山の頂上が噴火し、昼は噴煙であたりが暗く、夜は火光が天を照らすようになりました。噴火の爆発音は雷鳴のようであり、雨のように灰が降り、山の麓の川の水はみな紅色となりました」
10月28日 征夷副将軍を任命
11月6日 征夷大将軍・坂上田村麻呂(注1)を派遣して、諸国に移住している蝦夷を査察させることを決定
20年2月14日 坂上田村麻呂に節刀を下賜
9月27日 坂上田村麻呂から蝦夷を討伏したとの報告届く
10月28日 坂上田村麻呂が参内し、節刀を返却
11月7日 坂上田村麻呂、従三位に昇進
21年1月7日 征夷将軍が霊験があったと奏上した陸奥国の3神の神階を昇叙
1月8日 征夷軍の将兵に勲位を授与
駿河・相模両国から富士山が噴火したとの報告があったので、両国に神の怒りを静めるための読経を命じるとの詔勅 「駿河・相模両国が駿河国の富士山が昼夜を分かたずあかあかと焼け、霰のような砂礫を降らしている、と言ってきた。これを卜ってみると、日照りと疫病の兆しだという。両国に命じて神の怒りを宥めて読経を行い、災いを払うようにせよ」
1月9日 坂上田村麻呂に陸奥国・胆沢城の築造を命じる
1月11日 東国の浪人4000人を陸奥国・胆沢城に移住させる勅令
1月13日 毎年、越後国の米と佐渡国の塩を兵糧として出羽国・雄勝城に送ることを決定
4月15日 坂上田村麻呂から、大墓公阿弖利為・磐具公母礼が500余人を引き連れて降伏してきた、との報告
5月19日 富士山の噴火による噴石が道を塞いだため、相模国の足柄路(足柄峠越え)を廃止して、筥荷路(箱根峠越え)を新たに開削
7月10日 大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを伴って、坂上田村麻呂が帰京
8月13日 大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを斬刑に処す
12月8日 道嶋御楯(みちしまのみたて)を陸奥国大国造に任じる
22年2月12日 越後国の米と塩を陸奥国の造志波城所へ送ることを命じる
3月6日 造志波城使・坂上田村麻呂(注2)が天皇に出征の挨拶
5月8日 相模国の足柄路を復旧、筥荷路を廃止
23年1月19日 蝦夷征討のため、東国の糒(ほしいい)と米を陸奥国・中山柵に運ぶ
1月28日 坂上田村麻呂(注3)を再び征夷大将軍に任じる

注1: 征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍坂上大宿禰田村麻呂
注2: 造志波城使従三位行近衛中将坂上田村麻呂
注3: 刑部卿陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂

飛鳥時代の阿倍比羅夫のように、坂上田村麻呂も海路を使った可能性がありますが、それでも海上から富士山は見えたはずです。一方、陸路でも東海道(略地図)ではなく東山道(略地図)を通ったとすれば、富士山を目にすることはなかったかも知れません。


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