日本書紀、続日本紀に次ぐ第3の勅撰史書・日本後紀から、延暦十八年(西暦 799年)七月の出来事を紹介します。平安京遷都から 5年が経過した桓武天皇の治世です:
是月、有一人乘小船、漂着參河國。以布覆背、有犢鼻、不着袴。左肩著紺布、形似袈裟。年可廿、身長五尺五分、耳長三寸餘。言語不通、不知何國人。大唐人等見之、僉曰、崑崙人。後頗習中國語、自謂天竺人。常彈一弦琴、歌聲哀楚。閲其資物、有如草實者。謂之綿種。依其願令住川原寺。即賣隨身物、立屋西郭外路邊、令窮人休息焉。後遷住近江國國分寺。この月、一人が乗った小舟が三河国に漂着した。布で背中を覆い、褌を身に着けていたが袴ははいていなかった。左肩から紺色の布をかけていて、その形は袈裟に似ていた。年齢は 20歳ほどで、身長は 5尺5分、耳の長さは 3寸余りあった。言葉が通じず、どこの国の人かわからなかった。大唐の人たちはこの人を見てみな崑崙人だと言った。後になって、日本語を習得し、自らを天竺人だと言った。いつも一弦の琴を弾き、その歌声は哀調を帯びていた。その持ち物には草の実のようなものがあった。これは綿の種だと言った。本人の希望によって川原寺に住まわせた。すると、携えてきた物を売って、(寺の)西郭の道端に小屋を建て、困窮した人を休息させるようになった。その後、近江国の国分寺に移し住まわせた。
「犢鼻」は膝付近を指す言葉ですが、それでは意味が通らないので、「犢鼻褌」と解釈しています。「五尺五分」は、平安時代以降に一般的になったとされる小尺(1尺=約 296mm)で計算すると約 150cm。「三寸」は約 9cm。「中國」は天皇の居住する土地、すなわち畿内の別称として使われていたので、「中國語」は日本語と解釈しました。
耳の長さが 3寸(約 9cm)余りあったというのは、どの部分を測ったのかはわかりませんが、相当に大きな耳の持ち主であったようです。初めて見る異国の人を描写するとき、普通は服装に加えて、顔つき、髪型、肌や目の色などを書くと思うのですが、この漂着者の場合は耳の長さが突出して目立ったということなのでしょう。私は、イースター島のモアイ像を建造したとされる長耳族と関連があるのではないか、と思っています。諸説ありますが、ポリネシア系の人たちがイースター島などに植民したのは奈良時代から平安時代ごろだそうです(図)。
綿の種や一弦琴の他にも、売って小屋を建てるに足るほどの物品を持っていたことから、漁師が嵐などで漂流したのだとは考えにくいと思います。植民を目的として船出した船団の中の一艘が流れ着いた可能性があるのではないでしょうか。
この漂着者はその後どうなったのでしょうか。同族とも離ればなれになってただ一人、まったく見ず知らずの土地に流れ着いたこの青年の望郷の念は察するに余りあります。日本の女性と結ばれて子孫を残したのでしょうか。
なお、この漂着者が持ち込んだ綿の種子がもとになって日本で綿花の栽培が始まったとするのは疑問です。六国史には、この漂着以前から、官人などに褒美として綿を下賜したという記録が多数あります。
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